前期・第22期より、毎月の定例勉強会では、当日藤原理事長が皆さんと共有したい話題についてお話しています。ご参加くださった皆さん、ありがとうございました!
\AIによる要約です/
*音声自動認識で書き起こしによるAI要約ですので、誤記等が含まれる場合もありますので予めご了承ください。
第119回は、教育の中心にある「情」の話から始まり、その先にある信仰と富士、AIとの付き合い方、為替の大きな転換、そして鬼澤監事との対話へと進みました。6つの層に向けて、それぞれ異なる角度から要約しています。どこからお読みいただいても構いません。
「情(じょう)」って何だろう
勉強や仕事のいちばん真ん中にあるのは「情」だ、と話されました。情というのは、家族を大切に思う気持ち、ご先祖さまを大切に思う気持ち、みんなで何かをやろうという気持ちのことです。この情がなくなると、人は言われたことしかしないロボットのようになってしまう、と。
理事長は、決まりごとが通じないような難しい場所で、20年も仕事をしてこられました。そこで大事なのは、むずかしい説明ではなく「まぁまぁ一杯」——まず座って、お酒を注いで、いっしょに飲むことなのだそうです。これができるかどうかで、何かができるかどうかが決まる。これも全部、情なのだ、と話されました。
昔の先生や、おまわりさん
昔の先生やおまわりさんは、情が深かった、と話されました。情が深いから、厳しいことを言われても身についた。うまくいかないことはたくさんあるけれど、情で支え合って、なんとかなってきたのだ、と。
神さまは、心に入ってくる
情がもっともっと深くなると、自分ひとりの気持ちをこえて、天と地の大きな真理につながるのだそうです。神さまは、頭ではなくて、おなかの真ん中の心に入ってくる。その心で神さまとつながることが、本当の情なのだ、と話されました。
日本には、仏教も神道もキリスト教もあります。でも、日本の祈りのいちばんのもとはどこかというと、富士山です、と。山梨県の富士吉田市には、大昔に神さまが最初に降り立って神社をつくったといわれる場所があります。そこの地元の人たちがとてもがんばっていて、毎朝おまいりに来る人もいる。神さまのほうもどんどん進んでいるのだから、人間もすこしがんばらないといけませんね、と話されました。
AIはおこらない先生
AIは勉強の道具としてとてもいい、と話されました。「わかりません」と3回言うと、ふつうの先生はおこってしまうことがある。でもAIは絶対におこらない。わかるまで、別の言い方で何度でも教えてくれます。理事長ご自身も10年ほど先生をされていたそうですが、あれほど我慢強い先生はいない、と。
ただし、AIに情はありません。知識を身につけたあと、その知識でみんなのために何をするか——それを決めるのは人間です。
桜と、ふるさと
日本人の心は桜の花のようだ、というお話がありました。小さな花がたくさん集まって、ひとつの大きな花になっている。そこにみんなが集まってお花見をする。菊の花も同じです。
いろいろな勉強をして、都会に出る人もいる。でも最後に戻ってくるのは「自分のふるさとがどうなるか」というところだ、と話されました。
教育の真ん中にあるもの
教育の本当のポイントは「情」であり、情が壊れたところからすべてが壊れてきた、と述べます。わかりやすい例が社会主義で、家族の情、祖先との情、民族の情を順に断ち切っていく。気持ちを完全に孤立させると、人はロボットのようになり、言われたとおりのことしかしなくなる、と。
日本は特に情の国民だ、と。それを見抜いたのが数学者の岡潔で、その著作は今も若い人に読まれている、と紹介されました。
「まぁまぁ一杯」ができるかどうか
意思決定の極限の世界を20年見てきた、と述べます。そこでは言葉で説明するような場面はほとんどなく、大事なのは「まぁまぁ一杯」——まず座を持ち、一杯を注ぐことだ、と。今の感覚では前近代的だと言われるけれど、それしかできない世界もある。これができるかどうかが、何かを成せるかどうかの分かれ目になる、と述べました。これも全部、情なのだ、と。
情の先にあるもの
情がもっと深いところまで行くと、個人の情を超えて、天地の真理のようなものになる、と述べます。神は頭ではなく、腹の中の心に入ってくるものであり、その心で天地の神とつながることが本当の情であり、信仰心そのものだ、と。
西洋で学問が修道院から生まれたのはそのためで、信仰がなければ真理には至れないと考えられていた。後に聖と俗が分けられ、信仰が切り離されたところから、今の科学が進んでいった——鋭くはなったけれど、気づけばまったく別の場所に来てしまった、と。
祈りの源としての富士
日本には仏教も神道もキリスト教もあり、宗教の話はややこしい。けれども日本の祈りの源はどこかといえば富士山であり、富士に集まるのが日本人なのだ、と述べます。だから世界のどこで活躍してもいい、富士は世界を沸かせるものだ、と。
富士吉田市には、かつて天孫が最初に降り立って神社を造ったとされる場所があると紹介されました。地元の方々の取り組みで良い気が出てきており、議員の方が毎朝参拝に来られている、古宮も復活したという感じがする、と。神様ごとも進展しているのだから、我々人間も少し頑張らなければいけない、と述べています。
AIには情がない
AIはどんどん道具として使えばいい、自分は肯定派だ、と述べます。子どもの勉強にはAIが一番いい、と。20人に一斉に同じ説明をしても、その人のレベルに合っていなければ伝わらない。AIならその子がわかるところまで、何度でも教え方を変えてくれる、と。会社の仕事でも、下手な上司や先輩に聞くよりよほどきちんと教えてくれる、とも。
ただし、本当の情は天地の力であってAIには入ってこない。知識の武装ができたあと、その情でみんなで何をするか——そこからが人間の仕事だ、と述べました。
革命は、起きたら適応するしかない
かつて森喜朗首相が国会で「IT革命をやりませんか」と述べたことに触れ、実際にIT革命は起きた、と。製造業がアナログからデジタルに変わり、アナログの技術者が職を失い、一方で新しく興った人もいた。革命は、いいも悪いもなく動いてしまうものだから、起きたら適応するしかない。次の世の中を予見して、必要なものを揃えていく——できるのはそれだけだ、と述べました。
学問はなぜ修道院で生まれたか
教育の本当のポイントは「情」であり、情が壊れたところからすべてが壊れてきた、と述べます。その情をさらに深めていくと、個人の情を超えて、天地の真理のようなものに行き着く、と。天地の真理は心に入ってくるものであり、頭ではなく腹の中の心に入ってくるのが神なのだ、と。その心で天地の神とつながることが本当の情であり、信仰心そのものだ、と述べました。
西洋で学問が修道院から生まれたのは、まさにそのためだ、と。学問は信仰がなければできない、信仰がなければ決して真理には至れない——そう考えられていたから、学問は修道院で生まれた、と述べます。それが後に聖と俗に分けられ、信仰が切り離され、そこから現在のサイエンスが進んでいった。鋭利になったことは間違いないけれども、気がついたら神とはまったく違う場所に来てしまい、大混乱になっている、と。
AIについても同じ枠組みで説明されました。AIに情はない。本当の情は天地の力だから、AIには入ってこない——能力の優劣ではなく、そもそも別のものだ、という位置づけです。
祈りの源としての富士
日本には仏教も神道もキリスト教もあり、宗教の話はややこしい。けれども日本の祈りの源はどこかといえば、富士山だ、と述べます。富士に集まるのが日本人なのだ、と。だから世界のどこで活躍してもいいけれども、富士は世界を沸かせるものであり、そこへ向かって頑張っていこう、と。
実際に富士吉田市には、かつて天孫が最初に降り立って神社を造ったとされる場所がある、と紹介されました。地元の方々が熱心に取り組まれ、とても良い気が出てきている。議員の方が毎朝その神社に参拝に来られており、古宮も復活したという感じがする、と。神様ごともどんどん進展しているのだから、我々人間も少し頑張らなければいけない、と述べています。
「I am the house」という宣言
ベッセント財務長官が円ドル為替について「I am the house」と述べたことを取り上げました。the house は book keeper、つまり胴元という意味であり、金融の世界でまず使われない言葉だ、と。「円ドル為替は俺が仕切る賭場だ」という意味になります。
相場は胴元が誰かを知ることが何より大事だと以前から述べてきたが、財務長官が自ら胴元だと公言したのは初めて聞いた、と。本当の胴元はこれまでロンドンのシティであり、アメリカの大統領も財務長官も振り回される側だった。だからこの発言は、賭場を乗っ取ったという勝利宣言に等しい、という読みです。
なぜ胴元が変わると円高なのか
胴元がロンドンだったときは、日本に円安で金を出させ、その金を世界にまく仕組みだった。ところがトランプ政権が目指すのは輸出拡大であり、ドル安でなければ困る、と述べます。共和党政権は歴史的にドル安をやってきた——ニクソンショックもプラザ合意もそうだ、と。トランプ政権一期目の105円から115円あたりが「ノーマル」であり、そこから見れば今は完全な円安だ、と。
110円まで戻って、ようやく「円安の終了」。円高はそこから先の話であり、二桁の世界になる——トランプ大統領の物の言い方からすれば50円だろう、と述べました。
ニクソンショックの記憶
1971年、金曜に市場が引け、土曜にキャンプデービッドで会議、日曜夜にホワイトハウスから演説があり、金とドルの交換停止が発表された。最初に開いた主要マーケットが日本だった、と述べます。日本だけが市場を開けたままドル売り注文を受け、日銀が買い向かったために大量の円が出て、それが70年代前半の狂乱インフレの最大の原因になった、と。
引き金はイギリスがアメリカに預けていた金を持ち帰ったことであり、アメリカに金がなかったのだ、と。最近オランダがアメリカ国内の金を売ってロンドンで買い直したという報道に触れ、ニクソンショックの前夜とまったく同じことが起きている、と述べました。
マネタリズム50年の終わり
レーガン政権も金本位制に戻そうとしていた、と述べます。ところが暗殺未遂があり、金庫を見たら金がなかったのではないか、と。結果として金の縛りを外し、ひたすら金をばらまくマネタリズムが80年代前半に始まった。アラン・グリーンスパンの時代であり、シティ出身のサッチャーが首相となり、金融ビッグバンが起きた、と。
大学時代、宇沢弘文先生がマネタリズムをとんでもないものだと繰り返し述べておられた。卒業から40数年、それが今終わろうとしている——感慨深い、と述べました。
中東と東アジア
中東は東にイラン、北にトルコ、西にエジプトがあり、真ん中にパレスチナがひしめいている。誰も覇権から逃げられない戦国時代のような状況だ、と述べます。アメリカもヨーロッパも手を引いて収拾がつかず、最後はロシアが出てきて取り持つことになるのではないか、と。ユーラシアの織田信長のようなものだ、という表現が使われました。
東アジアについては、米朝の対話が進み、中国もロシアも歓迎しているため、和平の方向にある、と。困っているのは日本と韓国だ、と述べています。
「情」を認識論の問題として読む
今回の前半は、教育論の形をとった認識論の議論として読めます。中心にあるのは、合理性の枠外にあるものを教育から排除した結果、何が失われたかという問いです。
戦後教育において「情は合理的なものではない」として外されていった、と述べます。しかし情こそが行動の基盤であり、それを断つと人は指示されたことしか行わなくなる。社会主義が家族・祖先・民族の情を順に切断し、個人を完全に孤立させる手順として説明されました。
さらに情を深めていくと個人を超え、天地の真理に接続する——これが信仰であるという議論に進みます。神は頭ではなく腹の中の心に入ってくるものであり、その心で天地の神とつながることが本当の情であり信仰心そのものだ、と。西洋の学問が修道院で生まれたのは、信仰なしに真理には至れないという前提があったからであり、聖俗を分離して信仰を切り離したところから近代科学が始まった。鋭利にはなったが、神とはまったく別の場所に到達してしまった、という整理です。
言語化できない領域での合意形成
意思決定の極限の世界を20年経験した、という前置きのもとで、興味深い指摘がなされました。そこにはコミュニケーションらしいコミュニケーションがなく、言葉で説明して進める世界ではない、と。何かをやろうという話は「まぁまぁ一杯」で決まる。前近代的だと言われるけれども、それしかできない世界もある、と述べます。
これができるかどうかが、山の中に何かを成せるかどうかの分かれ目になる——共同体における合意形成が、言語的説得ではなく情の交換によって成立する場面がある、という観察です。前半の「情」論と、後半の共同体論をつなぐ蝶番にあたる部分で、暗黙知や関係資本の議論として読めます。
AIをこの枠組みでどう位置づけるか
AIには情がない、なぜなら情は天地の力だからだ、という主張が置かれます。これは能力の欠如ではなく、カテゴリーの違いとして述べられている点が重要です。だからこそAIは道具として全面的に肯定され、知識伝達においては人間の教師を上回るとされます。個別最適化と無限の忍耐という二点が、その根拠として挙げられました。
そのうえで「知識の武装ができたあと、その情でみんなで何をするか」が人間の領域として残される。知識と意思決定を分離し、後者に共同体的動機を置く構成です。
共同体の帰着点と、祈りの源
情の根幹に信仰があると、能力を持った人たちが一箇所に集まってくる、と述べます。この家を守ろう、この共同体を守ろう、この土地を守りたいという、言葉にならないものまで含めて信仰となったとき、多様な能力が集積する。逆にそれがなければ、各自が能力を活かせる場所へ分散していく。明治以降の日本の村づくりはこの原理で動いており、村から学校へ、都会へと出ていっても、最後に戻る問いは「我が故郷はどうなるか」だ、と。
その祈りの源として名指されるのが富士山です。仏教も神道もキリスト教もあって宗教の議論は複雑だが、日本の祈りの源は富士であり、富士に集まるのが日本人だ、と。富士吉田市の、天孫降臨の地とされる神社をめぐる地元の動きが具体例として紹介されました。
移動コストが極小化した現代において、定着の根拠を経済合理性ではなく情と信仰に求める議論であり、地域論・共同体論として検討に値します。
鬼澤監事との対話——学びの場の多様性
鬼澤監事からは、江戸期の藩校・寺子屋・私塾という学びの場の多様性が指摘されました。学校だけが学びの場ではなく、教師だけが学びを主導する存在でもない、と。水戸で運営されていた「明日の学校」のコンセプトとして、街がキャンパス、人が教科書、誰もが先生で誰もが生徒、という定式が紹介されます。文部科学省が制度として何を考えるかとは別に、一人ひとりがどうすれば良い学びの場をつくれるかを考える必要がある、と。
またAIを用いて岡潔について調べたところ、岡の言う情緒は一般的な情緒概念より広く、人間への思いやりにとどまらず自然を含む——知・情・意の「情」にあたる部分であり、数学を極めた人だからこそ重要なのだ、という応答が得られた、と紹介されました。小林秀雄への言及もあわせてなされています。
言葉を日本語にすること
鬼澤監事から、研修においてカタカナ語を極力使わないようにしてきたが、最後まで残ったのが「リーダーシップ」だった、という話がありました。日本語にならない言葉だからこそ、その意味を深く考えることが思考の第一歩になるのではないか、と。
これに対し、水戸は情の町であり、会津・水戸・桑名・佐賀は幕末をこの情の深さで越えてきた、という応答がなされました。情が深いからこそ天狗党と諸生党の対立が今なお尾を引いている、という指摘も交わされています。
情が失われた組織で何が起きるか
教育の中心にあるのは「情」であり、情が壊れたところからすべてが壊れてきた、と述べます。気持ちを完全に孤立させると、人はロボットのようになり、言われたことしかしなくなる、行動しなくなる、と。組織の話としてそのまま読める指摘です。
その情を深めていくと個人の情を超え、天地の真理につながる。それが信仰であり、西洋で学問が修道院から生まれたのは、信仰がなければ真理に至れないと考えられていたからだ、と述べます。聖俗を分離して信仰を切り離したところから、現在のサイエンスが進んでいった。鋭利にはなったが、気がつけばまったく違う場所に来てしまった、と。
実務上の含意は、人の集まり方に現れます。情の根幹に信仰があると——この家を守ろう、この共同体を守ろう、この土地を守りたいという、言葉にならないものまで含めて——能力を持った人たちが集まってくる、と述べます。逆にそれがなければ、少し勉強して詳しくなったから東京へ行ってみよう、今度はあちらで働いてみようと、働く場所がばらばらになっていく。明治以降の日本の村づくりは、すべてその原理で動いていた、と。
採用・定着・地域での事業継続を考えるうえで、経済条件だけでは説明しきれない部分を扱った議論です。そして、いろいろな人生を経ても、結局のところ「我が故郷がどうなるか」に尽きる、と述べられました。
祈りの源としての富士
日本の祈りの源は富士山であり、富士に集まるのが日本人なのだ、と述べます。世界のどこで活躍してもいいが、富士は世界を沸かせるものだ、と。富士吉田市には天孫が最初に降り立って神社を造ったとされる場所があり、地元の方々の取り組みで良い気が出てきている、議員の方が毎朝参拝に来られている、古宮も復活したという感じがする、と紹介されました。神様ごとも進展しているのだから、我々人間も少し頑張らなければいけない、できる限り前進することが大事だ、と。
為替の前提が変わる
ベッセント財務長官の「I am the house」発言を、賭場の胴元がロンドンからワシントンへ移ったことの公式宣言と読む、というのが今回の中心的な論点です。
実務的な含意は明確です。胴元がロンドンだった時代は、日本が円安で資金を出し続ける構造が維持された。新しい胴元は輸出拡大を目的としており、ドル安を志向する。したがって円高方向への転換は政策的な意図によるものであり、市場の需給で押し戻せる性質のものではない、と。
水準感としては、110円で「円安の終了」、そこから先が円高の領域、最終的には二桁から50円という見立てが示されました。輸入・輸出のどちらに立つかで、事業計画の前提を置き直す必要がある局面です。
国際金融への関与について
日本の金融は完全な敗戦だ、と述べます。国際金融に資金を貢ぎ、さらに外資に投資して儲けようとする時代は終わった、と。早く資金を引くべきだ、というのがご自身の考えである、と明言されました。
AIの実務投入
AIは道具として全面的に使うべきだ、と繰り返し述べられています。会社の仕事でわからないことは、下手な上司や同僚、先輩に聞くよりAIに聞いたほうがきちんと教えてくれる、と。教育においても、20人に一律の説明をすることの無意味さが指摘されました。
鬼澤監事からは、研修の設計にAIを組み込んでいる実例が語られています。その場で岡潔について調べさせ、研修プログラムへの組み込み案が次々と提示された、と。
知識のあとに残るもの
知識はAIで武装できる。問題はその先で、「この情でみんなで何をするか」が人間の仕事として残る、と述べます。組織に情がなければ、能力のある人は各自の都合で分散していく。逆に情があれば、多様な能力を持つ人が集まってくる——採用と定着の問題として読める部分です。
この後半の見通し
今年の後半は大きく変わる、と述べます。うまくいく形が見えているところと、行き詰まりが見えているところの差が、すでに映像として判別できる状態にある、と。財政も重大な問題だが、最後は隠し金がどれだけ出てくるかだ、と。アメリカが一人5,000ドルを配ると述べていることに触れ、関税収入だけで賄える額ではなく、関税と称する別の原資があるはずだ、と述べました。状況対応型で行くほかなく、深刻に考えすぎないほうがいい、と結んでいます。
情が深かった時代
昔の警察官、昔の先生、昔の親は情が深かった、と述べます。情が深いから、厳しいことを言われてもそれが身についた。うまくいかないことはたくさんあるが、情で支え、支えられてなんとかなってきたところがある、と。
理事長ご自身、意思決定の極限の世界を20年見てこられて、そこで通じるのは理屈ではなく「まぁまぁ一杯」だった、と振り返っておられます。それができるかどうかが分かれ目になる、と。
戦後の教育は、情を合理的でないものとして外していった。そこから大混乱が始まった、というのが今回の出発点です。
情の先にある信仰
情をさらに深めていくと、個人の情を超えて、天地の真理のようなものにつながる、と述べます。天地の真理は心に入ってくる。神というのは心に入ってくるものであり、頭でも腹でもなく、その真ん中の心に入ってくるのが神なのだ、と。その心で天地の神とつながることが本当の情であり、信仰心そのものだ、と語られました。
西洋で学者はどこで生まれたかといえば、修道院です、と。なぜ修道院で学問が生まれたかというと、学問は信仰がなければできないからだ、信仰がなければ決して真理には至れないからだ、と述べます。それが後に、聖と俗を分けて、信仰を切り離して、そこから今のサイエンスがどんどん脱線していった、と。鋭くなったことは間違いないけれども、気がついたら神とはまったく違う場所へ行ってしまい、大混乱になっている、と。
祈りの源は富士山
日本には仏教も神道もキリスト教もあって、宗教の話はややこしい。けれども日本の祈りの源はどこかと問われれば、富士山です、と述べます。富士に集まるのが日本人なのだ、と。だからどんなに世界で活躍してもいいので、富士は世界を沸かせるものとして、そこへ向かって頑張っていこう、と。
実際に富士吉田市には、かつて天孫が最初に降り立って神社を造ったとされる場所がある、と紹介されました。そこの地元の方々がとても熱心に取り組んでおられ、良い気が出てきている。議員の方が毎朝その神社にお参りに来られていて、これはすごいと思った、と。富士の古宮も復活したという感じがする、と語られています。
神様ごともどんどん進展しているのだから、我々人間も少し頑張らなければいけない。とにかくできる限り前進することが大事だと思っている——前半は、そう結ばれました。
ニクソンショックを思い出す
1971年8月のあの週末を、順を追って振り返っておられます。金曜に市場が引け、土曜にキャンプデービッドで会議があり、日曜夜の演説で金とドルの交換停止が発表された。最初に開いた主要マーケットが日本だった、と。
日本だけが市場を開けたままドル売り注文を受け、日銀が買い向かった。大量の円が出て、それが70年代前半の狂乱インフレの最大の原因になった、と述べます。今また、オランダがアメリカ国内の金を売ってロンドンで買い直したという報道が出ている——あのときの前夜とまったく同じことが起きている、と。
1982年、ロンドンにて
初めてヨーロッパに行かれた1982年は、テロの嵐の年だったと振り返ります。ロンドンのハイドパーク・コーナーで、100メートルほど先で爆弾が爆発した。行ってみると血の海で、騎馬警察隊の馬が脚を吹き飛ばされて血を噴き出していた——それが最初に見た光景だった、と。あの時代も、もうこれで終了だろう、としみじみ述べておられます。
宇沢弘文先生のこと
大学時代、宇沢弘文先生がマネタリズムについて「あんなとんでもないものはない」と繰り返し述べておられた、と。卒業から40数年が経ち、それが今まさに終わろうとしている。とんでもないと言われていたものが、やはりとんでもなかったのだ——感慨深い、と述べられました。
桜と菊
日本人の心情は桜の花のようなものだ、と述べます。小さな花が密集してひとつの花になり、そこに大勢が集まって花見をする。菊も同じで、真ん中からたくさんの花が出る。情で結ばれて、そこにたくさんの人が集まる——これが日本人の心情であり、国民なのだ、と。
革命の時代に
革命というのは怖いもので、うまくいく人といかない人がはっきり分かれてしまう、と述べます。いいも悪いもなく、支持するしないにかかわらず動いてしまう。だから起きたら適応するしかない。次の世の中を予見して、どう適応するか、必要なものをどう揃えるか——できるのはそれだけだ、と。
そのうえで、あまり深刻に考えずに進んでいけばいい、引き続き元気にやっていきましょう、と結ばれました。
NPO法人日本再生プログラム推進フォーラム(NSP)は、NSP会員年会費・ご寄附と、クラウドファンディング2026を原資にアーカイブづくりをしています。ありがとうございます。