NSP第24期総会イベント / 基調講演(藤原直哉理事長)のコンテンツ(動画・音声・AI要約・参考URL)をお届けします。
おかげさまで、10月24日(土)開催の第24期総会は無事に成立し、すべての議案についてご承認をいただきました。会員の皆さま、ありがとうございました。
\今後の活動日程/
・第24期(2026年10月〜2027年11月)活動日程随時更新中です!
・わたしたちのこれまでの活動記録(第7期〜第23期)は、こちらからご覧ください。
\AIによる要約です/
第24期総会の後に行われた基調講演です。NSPが設立当初から掲げてきた「分散型でボトムアップ」という一点が、いま世界で現実になりつつある——そこから、データ・国家・お金・時間のとらえ方まで話が及びました。6つの層に向けてそれぞれ異なる角度から要約しています。どこからお読みいただいても構いません。
たくさん集めると、ねらわれる
いま、インターネットでたくさんのトラブルが起きています。その意味はこうだ、とお話しされました。人の作ったプログラムを、人の作ったAIが攻撃している。これは終わることがありません。ウイルスや細菌がこの世からなくならないのと同じです。
では何が問題なのか。一度にたくさんのデータが外に出てしまうことです。だから、たくさんのデータを一か所に集めてはいけない。インフルエンザにかかった人が学校を休むのと同じで、たくさんの人が集まっているところほど、いっぺんに広がってしまうからです。
データは、自分が持つ
これからは、一人ひとりが自分のスマホにデータを持つようになる、とお話しされました。学校も、病院も、お店も、国も、誰もあなたのデータを持ちません。あなたのデータは、あなたが持っているのです。
そして、誰かに見てもらいたいときだけ「どうぞ」と見せる。見おわったら、ふっと消える。だから「データはあるような、ないような」世界になります。
大きいことは、強いことではない
これまでは、大きな会社や大きな国が強いと思われてきました。でもいまは逆だ、とお話しされました。大きいと、こわれやすいのです。大きな蔵があるから、ねらわれる。
五日市(いつかいち)、六日市、八日市
むかしは、決まった日に市(いち)が立ちました。その日にみんなが集まって、売り買いをして、おわったら帰る。ずっとお店と蔵をかまえて、そこに全部の財産を置いておくのとは違います。
なにも置いていなければ、ねらわれても取られるものがない。 だからこの形がいちばん安全なのだ、と。
時間は、まわっている
これからは大きなお金の夢はないけれど、四季折々の楽しみがある、とお話しされました。春があって、夏があって、秋があって、冬がきて、また春がくる。時間はまっすぐ進むだけではなく、ぐるぐるまわっています。
人生も同じです。子どもは子どもで、若い人は若い人で、お年寄りはお年寄りで、その時その時を充実させることが大事。年ごとに役割がちがうのだから、と。
そして最後に、こう結ばれました。前を見てください。
ネットのトラブルが意味していること
いま世界中でデータの漏洩が起きています。これをどう読むか、というところから講演は始まりました。
人が作ったプログラムを、人が作ったAIが攻撃している。だから決着はつかないし、なくなることもない。問題は、感染したときに一度に大量のデータが漏れてしまうことです。つまり、大量のデータを持つこと自体が問題なのだ、と。
インターネットのパラドックス
ここが今回の構造の核心です。
通信はもともと「統制型」でした。必ず統制局があって、そこが全部をまとめる。電信も電話もヒエラルキーになっていました。
ところが、核攻撃で中心が壊れても通信が続くように、迂回路を自分で探して通信するシステムが軍用に作られます。これがインターネットの原型です。冷戦が終わって民間に開放され、アメリカで1993年、日本で1995年から広がりました。その特徴は分散型であることでした。
ところが、インターネットでビジネスをするようになってから、かえって集中化が進んでしまった。 みんなシェアを拡大して、たくさんデータを持つことが商売だと考えた。それが今、裏目に出ている、と。
もともとインターネットは味方の中で動かすシステムで、敵がいることを想定していません。だからセキュリティも元々は必要なかった。無料のシステムなので、お金を取ることも難しい。そこに無理をして積み上げてきた、という見方です。
大きいことは、虚弱なこと
大きいことは強いことではないんだよ。分散化システムでは、大きいことは虚弱なことなんだよね。
パッチを当てても必ずまた破られる。大きなところのシステムはハードが古くて、新しいパッチに対応できない。50年前のCOBOLをまだ使っているところすらある、と。
データは本人が持つ
これからは一人ひとりのスマホに一生分のデータが入る、と述べます。国も企業も病院も、誰もデータを持たない。医療記録も、全部自分が持つ。
そして大事なのは、自分が誰にどんなデータを出すかを自分で決めるということです。この銀行と付き合いたければ出す。付き合いたくなければ出さない。政府も同じで、そのサービスを受けたいと思ったら出す。
五日市・六日市・八日市
代わりの形として挙げられたのが、昔の市(いち)です。常設の店舗と蔵を構えてそこに財産を全部入れておくのではなく、取引ごとに集まって、取引して、終わったら帰る。どこを攻撃されても中身がない。これが一番安全だ、と。
小売業ももとは行商でした。持っているのはお客さんの名簿程度——どこに誰がいるか、訪問する家が書いてあるだけ。そこから市が立つようになり、固定の店舗ができ、どんどん大きくなって今の経済になった。平和な時代だからこそ、これだけ巨大な経済主体や国家が成り立つようになったのだ、と。
直線の時間から、循環する時間へ
明治以降の150年は、ひたすら右肩上がりの直線を走ってきた、と述べます。年齢も、出身地も、山の生まれか町の生まれかも関係ない、やればできる、国も関係ない——そういう時間でした。
けれども今それをやっているからうまくいかない。時間は循環していくのだから、その時その時を充実させることが大事だ、と。子供は子供で、青年は青年で、壮年は壮年で、老年は老年で充実する。それぞれの年で役割が違うのだから、と結ばれました。
出発点 ― 分散型でボトムアップ
NSPは「日本再生のプログラムを推進するためのたまり場」という位置づけで生まれました。始めたのは藤原直哉ではなく、ある先輩の政治家だった、と。そして最初から、日本再生は分散型でボトムアップだという点で完全に意見が一致していたそうです。
その根拠は当時から明快でした。上の構造は内側から見れば機能していない。だから上を動かそうとしても無理で、下から行くしかない——「中をよく知る者同士」の共通認識だった、と述べます。
それから二十数年。いま見えているのは、集中型の権力構造そのものが維持不可能になったという光景だ、と。
自己破壊としてのデータ漏洩
いま起きているデータ漏洩を、藤原直哉は「自己破壊」と呼びます。
人が作ったプログラムを、人が作ったAIが攻撃している。つまり攻撃する相手が外にいない。移民でも他国でもなく、自分たちが作ったものが自分たちを壊している。シムシティというゲームで、自分たちが作った街がやがて腐敗して自己破壊していく——あの光景そのものだ、と。
そして問題は「攻撃を防げるか」ではありません。感染したときに一度に大量のデータが漏れることが問題なのだから、答えは一つ。大量のデータを一か所に持たないことです。
データの量子的な性質
2018年ごろにブロックチェーンの研究会を全36回やった、と述べます。そのとき分かっていたことの範囲を、今も全く超えていない、と。
その中身はこうです。データは一人ひとりのスマホに入る。国も企業も病院も、誰もデータを持たない。一生分のデータを本人が持つ。
そして必要なときだけ「読ませてください」と言うと読めて、処理が終わったら自動的に消える。だからデータは「あるような、ないような」世界になる。
それって量子的性質と同じですよね。エネルギーをかけてみると、そこで浮かび上がってくる。エネルギーが消えると元の波動に戻る。見るという操作をして初めて見れるし、役目が終わったらまたふっと消えてしまう。
政府とは何か ― ポータルサイト
統治の形についても、具体的な像が示されました。
新しい政府のサイトは、ポータルサイトになっている。「何の御用ですか?」という窓が一つあるだけ。母親を支援するためのポータルがあり、水産業を再建するためのポータルがあり、それぞれが「たまり場」になっている。
これが政府なんですよ。何省は何省なんだって話はどうでもいい話でね。政府と国民の関係っていうのは、何の御用がございますか、と。町役場と同じ関係なんですよ。
我々は総理大臣が誰だ、大臣が誰だという話ばかりしているが、直接関係があるのはどういうサービスをしてくれるかだ、と。そして大きなデータを持たなくなるのだから、政府はうんと小さくなる、とも。
五日市のかたち
分散型の経済がどうなるかを、昔の市(いち)で説明します。
常設の店舗と蔵があって財産を全部そこに入れておくのではなく、取引ごとに集まり、取引して、終わったら帰る。どこを攻撃されても中身がない。大きな蔵があるから狙われる——それが集中であることの怖さであり、虚弱さだ、と。
小売業の起源も行商です。持っているのはお客さんの名簿程度で、どこに誰がいるか、訪問する家が書いてあるだけ。そこから市が立ち、固定店舗ができ、大きくなって今の経済になった。つまり巨大な経済主体が成り立つのは、平和な時代の条件つきの話だった、ということになります。
「お金の量は無限」という前提の終わり
金融についても一点、はっきりした指摘がありました。
いまの金融は「お金の量が無限である」という前提で動いている、と。だから不動産価格も無限に上がるし、資産はいくらでも積めるし、会社もいくらでも大きくできる。
金を裏づけにすれば発行量に上限があるので、全部に上限がかかる。この範囲で仕事をしろ、ということになる。そうなれば、一か所にデータを集めて自分が強いと言っても「池の中のクジラ」になるだけだ、と。
数字で表せる世界の、外側
今年発表した複素数のレポートに触れながら、こう述べます。
新しい時代のエネルギーはどこから来るかっていうと、今までの数字で表せる世界の外側にあるんですね。
現界と霊界が合わさったところ。微生物の世界、自然災害、発酵のような世界。歴史と伝統も同じで、ここは非常に強いエネルギーを持っているのに、科学で分からないから放ってあった、と。
だから虚数で枠を広げるしかないと若い頃から考えていた。計算はAIが全部やってくれた、とも。そしてお金にこだわる必要はない。お金は目に見えるエネルギーのごく一部で、目に見えないところのエネルギーの方が多い——持続可能性を考えるなら、現界のことだけでは全く無理だ、と。
直線の時間と、循環する時間
結びの軸がここです。明治以降の150年は、出発点と終着点の間をひたすら右肩上がりに走る直線の時間でした。年齢も出身地も関係ない、やればできる、という時間です。
けれども時間は循環していく。四季折々の循環があり、年相応の人生の楽しみがある。人生そのものが一つの四季のようになっている。それこそが永遠という時間だ、と。
だから「何歳になってまだこれだから困る」という考え方自体が直線の時間のものだ、と。子供は子供で、青年は青年で、壮年は壮年で、老年は老年で充実する。それぞれの年で役割が違うのだから、と。
後ろ姿が教科書になる
最後に、こう呼びかけられました。不満を持っている人ばかりを見て、その力で何かをやろうとは考えないでほしい。平成以降、それでうまくいった試しがない、と。
前を見てください。どんどん分権化して、個性を光らせて、個が自立して組む時代にどうやって生きればいいのか。自分の居場所はどこにあるのかな、何が人生の楽しみなのかな、これをひたすら考えて生きてください。 こういう人たちの後ろ姿が教科書になるんです。
三層に分けて読む
今回も、観測・制度予測・説明枠組みの三層に分けると整理しやすくなります。
観測は、大規模なデータ漏洩の同時多発、レガシーシステムが最新のパッチに対応できていないこと、新興国のインフラが対外債務で建設されている一方で日本の国内インフラと住宅ローンは国内資金で賄われてきたこと、AIの応答様式に関する研究報告、日本食と日本的実践の世界的な広がり。制度予測は、自己主権型データ管理への移行、省庁型から機能別ポータル型への統治の転換、金を裏づけとする通貨と発行量上限、政府機能の縮小。説明枠組みとしては、集中の脆弱性、数値化できない領域のエネルギー、そして線形時間から循環時間への転換が置かれました。
分散型アーキテクチャ論として
もっとも分析的に扱えるのがここです。主張は三段構えになっています。
第一に、脅威は根絶できない。人の作ったプログラムを人の作ったAIが攻撃する構造は、病原体が生態系から消えないのと同様に消えない。したがって防御の目標は「侵入を防ぐ」ではなく「侵入されたときの被害を限定する」に移る。
第二に、被害の大きさは保有データ量の関数である。したがって集中保管それ自体がリスク要因になる。ここから「大きいことは虚弱なこと」という命題が導かれます。規模の経済が、規模の脆弱性に反転する、という議論です。
第三に、代替構造は自己主権型のデータ管理。データ主体が自らデータを保持し、取引の都度アクセスを許諾し、処理終了後にアクセスが消滅する。これを藤原直哉は「量子的性質」と表現しました。観測行為によって状態が確定し、観測が終われば元に戻る、という比喩です。厳密な物理的対応というより、永続的な複製を前提としないデータモデルの直感的な説明として受け取るべき層でしょう。
インターネット史の皮肉
歴史的な論点として提示されたのが、この反転です。
通信インフラは伝統的に統制型で、統制局を頂点とする階層構造を持っていました。これに対しインターネットの原型は、中枢が破壊されても迂回路を自律的に探索して通信を継続するシステムとして設計された。つまり分散性は設計目標そのものでした。
ところが商業化以降、シェア拡大とデータ集積が競争優位として追求され、分散型のインフラの上に集中型のサービス構造が築かれた。技術的なアーキテクチャと経済的なインセンティブが逆方向を向いた、という整理になります。
あわせて、初期設計には敵対的アクターの想定がなく、課金機構も前提になかったという指摘があります。セキュリティも収益化も、本来の設計にない要求を後付けしてきた——現在の脆弱性をこの経路依存から説明する議論です。
統治モデルの転換
省庁別の組織図ではなく、機能別のポータルとして政府を構成するという像が示されました。母子支援のポータル、水産業再建のポータルがそれぞれ独立して存在し、国民との接点は「何の御用ですか」という単一の窓口になる。
含意は二つです。第一に、統治の正統性の所在が、代表の構成から提供されるサービスの内容へ移る。第二に、大規模データを保有しないことが前提になるため、行政機構そのものが縮小する。「政府の中をまとめるのはどうでもいい話で、国全体と世界全体のすり合わせが大事になる」という言い方がそれを示しています。
なお、この講演では憲法に関する試案にも触れられましたが、制度の具体的な設計については本要約では扱っていません。
交換様式としての「市」
経済史的な参照として、定期市(五日市・六日市・八日市)が挙げられました。常設店舗と蔵による継続的な在庫保有ではなく、取引の都度の集合と解散を基本とする様式です。行商→定期市→常設店舗→大規模経済という発展段階が示され、そのうえで現在の方向は逆行である、と位置づけられます。
重要なのは、ここに条件が明示されている点です。巨大な経済主体と国家が成立しえたのは平和な時代だったからであり、前提が変われば持続しない。ソ連解体が参照点として置かれました。
数値化できない領域という論点
今年発表した複素数のレポートに接続する形で、定量化可能な領域の外部にエネルギーの源泉があるという主張が提示されます。微生物、自然災害、発酵、そして歴史と伝統。科学的に扱えないという理由で放置されてきた領域を、虚数軸の導入によって枠組みに取り込もうとする試み、という位置づけです。
これは実証的命題というより、既存の分析枠組みの不十分さを指摘する方法論的主張として読むのが適切でしょう。持続可能性の議論を貨幣的尺度だけでは扱えない、という論点はそれ自体検討に値します。
認識と行動の時間差
もっとも実証的に確かめやすいのがこの論点です。体制転換において、転換を予期して先に動いた主体と、最後まで予期しなかった主体とで、その後の帰結が大きく分岐する。
例として、ソ連解体の三年ほど前から西欧と旧ソ連圏の当事者が水面下で接触を始め、資金調達の相談がウォール街に持ち込まれていたこと。そして敗戦に際して、最後まで負けないと考えていた人と途中で負けると考えた人とで、その後の人生が相当違ったこと。「思いだけでも相当違って、準備まで含めたら相当違った」と述べています。
選択的な関与という立場
倫理的に目を引くのがここです。「縁なき衆生は救い難し」という言葉を引きながら、全員を同時に救うことはできないという立場が明示されます。平成期に「みんなを救う」と掲げた政治の試みはいずれも成果を残せなかった、という評価がその根拠に置かれました。
ただしこれは排除の主張ではありません。異なる判断をする人について「向こうも良いと思ってやっているのだから、誰も非難することはできない」と述べ、縁があれば声をかけ、なければそれまでという関わり方が示されています。各自の判断を尊重したうえで、自分は自分の見通しに従って準備する、という構えです。
前提の転換 ― データは資産ではなく負債になる
実務上、最も大きな転換はここです。
これまで、顧客データの蓄積は競争優位と考えられてきました。今回の講演はそれを正面から否定します。自分のところにたくさんデータを持っていることは強みではなく、むしろ危険である、と。
理由は単純です。攻撃は根絶できない。だとすれば被害の大きさを決めるのは保有量です。大量保有は、そのまま賠償リスクと事業継続リスクになる。
現に、アカウント乗っ取りによる被害で、見舞金を支払ったうえで損失分を確定して賠償するという事例が出ています。その規模を考えれば、システムを作り直せるのか、穴は埋まるのか——賠償が続く構造になっていないかを見るべきだ、という指摘がありました。
レガシーという制約
あわせて技術的な制約が指摘されました。大規模なシステムほどハードウェアが古く、最新のパッチに対応できない。50年前のCOBOLをまだ使っているところすらある。パッチを当て続けるという対処法そのものに限界がある、と。
実務上の論点
「市」のかたちに商売を戻す
代替モデルとして提示されたのが、定期市です。
常設の店舗と蔵があって、そこに全部財産を入れて取引するんじゃなくて、取引ごとに皆さん集まって取引をして、取引終わったら帰って終わり。この形ですよ。これが一番安全なんだ。
小売の起源である行商も同じで、持っているのはお客さんの名簿程度。どこに誰がいるかが書いてあるだけです。年がら年中売り買いし続けるのではなく、必要があればデータを交換して取引する——そういう形に戻る、という見立てです。
上限のある世界での経営
いまの金融は「お金の量が無限である」という前提で動いている、と述べます。だから不動産も資産も無限に積め、会社もいくらでも大きくできる。
金を裏づけにすれば発行量に上限があるので、その範囲で仕事をしろということになる。一か所にデータを集めて強いと言っても「池の中のクジラ」になるだけだ、と。拡大を前提にした事業計画が成り立つかどうかを、ここで一度見直す論点になります。
現地へ行くこと、「思い」を聞くこと
後半、日本再生ポータルに寄せて具体的な勧めがありました。
一人でいろんな人に会ってきたが、話すのと同じくらい聞くのも好きだ、と。そして「思い」まで聞くと面白い。何をやったか、どうしてこうなったかだけでなく、「これをやっていてどういう気持ちですか」まで聞く。そうすると一時間の対談も面白くなる、と。
皆さんも独自に行かれていい、とも。そして、
やっぱりあの、人に会わなくても、気を感じるだけでも全然違うと思うんですね。
面白いな、この人すごいなと思ったら行ってみるといい。その人に会えれば最高だが、その場所に行くだけでも全然違う。その人が仕切っている場所の雰囲気を感じてもらえば、と。
2006年のロハスジャパン研究会で最初に訪ねたのは富山、そしてニセコでした。当時ニセコには、夏はカヌー、冬はスキーで友人を連れてくるオーストラリア人の若者がいた。それが起爆剤になって、今の観光地になっている。すごい人を追いかけていくと、その人はすごいことをやってくれる、と。
観光と健康には、いま日本中に選択肢がある、とも述べます。個人ツアーでの案内、拝観時間の前後に訪ねること、古民家で元のオーナーが話をしてくれること。業界を見ていても、掘り起こして掘り起こしてよくやっている、と。
平成の苦労は、いい苦労だった
今回いちばん実感を伴うのは、この部分かもしれません。
平成になってから三十何年、自分自身の苦労というより、社会がどうにもならなくて苦労してきた覚えがある、と述べます。そのうえで、
でもあれはね、とてもいい苦労だったと思うな。要するに変なものに頼ろうと思わなかったことはやっぱり良かったですね。
そして平成以降は「引き算の時代」だった、と。昭和の時代まで良かったものが、一つずつ消えていった。これはダメ、あれもダメ、と確かめていく時代だった、という振り返りです。
日本は、前倒しで壊れた
1990年から大崩壊が始まりました。株の暴落、不動産の下げ止まらない下落、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、銀行と証券会社の破綻。「積み木崩し」だった、と。
重要なのはその評価です。
日本はトランプが壊したんじゃない、誰か一人が壊したわけじゃなかった。気がついたらぶっ壊れてった。
アメリカも日本を壊そうとしたというより、壊れていくから利用したにすぎない、と。そして今、世界が同じことをやっている。日本はそれをずっと前倒しでやってきたのだ、と述べます。
だからいま世界で起きていることは、日本にとっては既視感のある光景だ、という見方です。
みんな、後ろからついてきている
バブルが弾けると、みんな日本に来る、と。日本食は世界中で増え続けている。シンガポールでも一年ぶりに行って、また増えていた、と。
本当に我々がさ、昭和の終わりから平成に苦労したとこ、後ろからついてきてますよ、みんな。
そして、日本では現界と霊界の間くらいのところで普通にやっている。気の世界も、宗教的なことも当たり前にやっている。これが今、世界に広がってきている——韓国では若い人のお寺ブームが起きているそうだ、とも。
面白い話として、AIの判断の基準が日本人の判断の基準に似ているという研究にも触れられました。AIは質問を受けて答える立場だから、いかに物事を荒立てずに上手に収めるかを考えなければならない。それが日本人のやり方にそっくりなのだ、と。日本を研究した結果ではなく、結果的にそうなったらしい、と。
昔のかたちに、戻る
これからの経済として示されたのが、五日市・六日市・八日市の形でした。
常設の店舗と蔵があって財産を全部そこに入れておくのではなく、市の立つ日に集まって取引をして、終わったら帰る。何も置いていなければ、狙われても取られるものがない。 大きな蔵があるから狙われるのだ、と。
小売業も、もとは行商です。持っているのはお客さんの名簿程度で、どこに誰がいるか、訪ねる家が書いてあるだけ。そこから市が立ち、固定の店舗ができ、どんどん大きくなって今の経済になった。けれども巨大な経済主体が成り立ったのは、平和な時代だったからにすぎない、と。
生まれる前と、死んだ後
教育についての指摘です。生まれる前と死んだ後のことを考えていないから、教育もおかしいのだ、と。生まれる前と死んだ後は全部つながっているのだから、そこまで含めて考えた教育でないと無理だ、と。
そして、
子供は何も知らないと思ってるけど、とんでもないんだよ。子供の方がむしろね、まともだったりするんですね。 で、年寄りはですね、いらないと思ってる。そうでもないんだよ。年寄り結構学んでんだね。これ全部生きてくるわけよ。
時間は、循環していく
結びの軸がここにあります。
これからの時代は巨大なお金がないから、一攫千金の大きな夢はない。でも四季折々の楽しみがある、と。時間は循環していく。四季折々の循環があり、年相応の人生の楽しみがある。人生そのものが一つの四季のようになっていて、これを楽しんでいく。それこそが永遠という時間なのだ、と。
明治以降の150年は、ひたすら右肩上がりの直線を走ってきました。年齢も出身地も関係ない、何でもやればできる、という時間です。けれども今それをやっているから、「何歳になってまだこれだから困る」という話になってしまう。
いや、そんなこともないんだ。時間は循環していくんだから、その時その時を充実させることが大事だね。子供は子供で充実。青年は青年で充実。壮年は壮年で充実。老年は老年で充実。
それぞれの年で役割が違うのだから、一直線に考えるのが間違いなのだ、と。四季折々の良さがある国は、世界にそう多くありません。
全員を同時には、救えない
ここは厳しくも、率直な部分です。
「縁なき衆生は救い難し」というお釈迦様の言葉を引きながら、全員を同時に救うことはできない、それがこの時代の構造だ、と述べます。平成に「自分がみんなを救う」と掲げた人たちは、いずれも成果を残せなかった、と。
ただし、これは切り捨ての話ではありません。異なる判断をする人について、
まあ向こうもいいと思ってやってんだろうからね。それでやってるのは本人の問題ですから、誰もそれは非難することはできません。
そして、縁があれば声をかけていい、縁がなければどうにもならない、と。大事なのは最後どうなるのかさえ想像できていることだ、と述べます。
戦争に負けるときもそうでした。最後まで負けないと思って敗戦の日を迎えた人と、途中で負けると思った人とでは、その後の人生が随分違った。思いだけでも相当違って、準備まで含めたら相当違ったのだ、と。
ディスカバー・ジャパン
1970年代の石油危機のころ、高度成長に疲れた日本が、もう一度失われていない日本を見出そうとしたキャンペーンがありました。ディスカバー・ジャパンです。
今もあれによく似ている、と述べます。昔の面影が残っているところもあるし、これからの日本を考えるときに、今どうなっているのか、どんな人がいるのかを知っておくのはとてもいい、と。
そして、観光は「光を見る」と書く。健康もまさしく光を見ることであり、食もそうなのだ、と。
面白いな、この人はすごいなと思ったら、行ってみるといい。会えれば最高だけれど、その場所に行って、雰囲気を感じるだけでも全然違う——そう勧められました。
前を見てください
最後に、こう呼びかけられています。
不満を持っている人ばかりを見て、不満を持つ人を集めてその力で何かをやろうとは、くれぐれも思わないでほしい。平成以降、それでうまくいった試しがない、と。
前を見てください。 どんどん分権化して、個性を光らせて、個が自立して組む時代にどうやって生きればいいのか。自分の居場所はどこにあるのかな、何が人生の楽しみなのかな、これをひたすら考えて生きてください。 で、こういう人たちの後ろ姿が教科書になるんです。後ろ姿が教科書ですから。
\参考/
・複素数で世界をひらくー増補・合本版ー(藤原直哉)
・America First Seafood Strategy(USA.gov)
・シェアしながら学び合うブロックチェーン研究会 2018年6月〜2020年8月(藤原情報教育研究所)
NPO法人日本再生プログラム推進フォーラム(NSP)は、NSP会員年会費・ご寄附と、クラウドファンディング2026を原資にアーカイブづくりをしています。ありがとうございます。