新生日本の国家ビジョン「グレートコラボレーション = 偉大なる共生社会の建設」

第4章「グレート・コラボレーション=偉大なる共生」社会の特徴(1)

1. 共生を願う気持ち

わたしはそれをひと言で言えば、「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」ということだろうと思うのです。すなわち21世紀の日本人の成功とは「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」をどこまで達成できるかということではないかと思うのです。ここで共生という言葉は英語のコラボレーションを訳した言葉で、よくチームワークという言葉と並べて使われます。一般にチームワークというのは組織の内部で協調していくことであり、コラボレーションというのは組織を超えて協調していくことです。ですから一般に共生というときには、隣人、隣の町、隣の会社、隣の国、次の世代、前の世代、自分の外側に広がる自然、自分より年上の人、年下の人など、自分から見てあらゆる外部の人や組織と一緒に協調していくということを意味します。 平成の大変辛い時代を土台にして、その上にロハスな生き方をとおして未来を拓こうとしている人々の思いを乗せたとき、私が感じるのは、人々はあらゆるものと共生したいと思っているということではないかと思うのです。すなわち20世紀までの時代はあまりにも自分と外部を峻別し、同時に家庭でも企業でも地域でも国でも、共同体という共同体がどんどん壊され、人はどんどん孤独になっていきました。しかも孤独な個人同士が互いに戦いあうことが奨励されているのが今の時代であり、その戦いが地球に与えるストレスで、そもそもの生きる基盤さえ失われかねないというのが今の我々の状況です。

2.あらゆる生命との共生

極端まで振れた振り子は必ず元に戻ってきます。日本人は今改めて、20世紀までの怨念を一度全部水に流して、すべての人、すべての民族、すべての国家、すべての自然、すべての地球、過去に生きていたすべての人とこれから自分が死んだ後も生きていくすべての人、そしてあらゆる動物や植物など、あらゆる生命と、種と空間と時間を超えて協調して生きていきたい、それが自分にとって一番気持ちがよいことだし、健康なことだし、持続可能な地球を守る上にも良いことだ、と、本気で確信し始めているのではないでしょうか。すなわち今、人々が求めている共生というのは単に隣近所と争いをしないというような狭いものではなくて、他の国や民族はもとより、地球上の植物、動物など、ありとあらゆる生命と共生するということであり、またリサイクル、リノベーション、伝統の重視というのは過去に生きていた人たちと共生するということであり、持続可能な地球環境を残していくということは、これから生まれてくる人たちと共生するということを意味しています。まさに種と空間と時間を越えて、人はあらゆる生命を共生することを求め始めているのではないでしょうか。こういう共生というものがわたしが言う「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」というものなのです。

3. 死生観の変化

そしてこうしたロハスから見える人々の価値観の変化のなかでもっとも特徴的だと 思われるのが、死生観の変化です。昔から日本では死後の世界や輪廻転生を信じる人が多いと言われていますが、20世紀の近代化の時代にはそういう伝統的、宗教的な考え方が衰退し、生きている間がすべてという現世的・刹那的な死生観が日本でも一般的になっていったと思います。ですから人の生き方も生まれてから死ぬまでの間だけが問題だということで、伝統や歴史が軽視され、また未来に対する無責任な行動が増えていったように思います。生まれた瞬間からすべてが始まって、死んだ瞬間にすべてが終わるという考え方であれば、人が限りなく独善的で、我がままかつ無責任に行動していくのを止めることは非常に難しくなります。唯一、恐怖によってのみ人の行動を抑えることができるという状況になれば世は乱れ、社会そのものが崩壊していきます。しかしロハスな生き方をしている人たちというのは決してひとつの宗教を信 じているわけでなく、ごく自然に独善的・現世的・刹那的な死生観から離れて、種と空間と時間を越えた他の生命を感じ、それと共生していく楽しさ、喜びを体で感じ取っているように見えるのです。多くの臨死体験が精神性向上セミナーの話題に取り上げられ、植物の成長や動物の生態を自ら間近に観察し、近代医学を使わずに難病が完治する様子が次々に紹介され、精神的に落ち込んでいた人がロハスの世界に接して心が癒されていく姿がいくつも目撃され、人々は次第に近代的な死生観を離れて、伝統的な死生観、すなわち死後の世界や輪廻転生に対して違和感を持たない死生観に、回帰していっているように見えるのです。

4. 理性の相対化

同時に非常に特徴的なことは、人々が次第に「なぜ」という言葉を使わなくなりつ つあるということです。一般に科学では再現性、論理性が重視され、目に見える証拠を積み上げた上で結論を出すことが一般的です。しかし今の日本では世界一の製造業大国といわれながらも人々の科学に対する関心が次第に希薄になっていき、反対に科学に対する不信感すら広がりつつあります。しかもおもしろいことにそれは決して科学から逃避するとか科学を知らなくて恐れるということではなくて、むしろ科学の最先端にいる人たち、すなわち優れた医者、物理学者、経済学者、農学者などの科学で飯を食っている人たちが、自ら科学の限界に直面し、科学の枠組みを超越する必要性を極めて真摯に、そして熱心に説いているのを聞き、そこに自分の体験や直感を重ね合わせて感じていることだということです。すなわち、科学の最先端にいる人たちが、もはや理性だけでは物事を理解しつくせない、「なぜ」という問いに答えられない問題が世の中にはあまりにも多すぎて、科学の力だけでは決して世の中全体を説明しつくせない、ということを本音で語り始めたことが、日本では人々が理性を相対化させていく非常に大きな原動力になっているように思います。近代的死生観から伝統的死生観への回帰も、基本的には理性の相対化によって起きている現象です。

5. 信じることより感じること

したがってロハスな生き方をしている人が外の人に自分の思いを伝える手法は、決 して科学的かつ理性的に説明しつくして相手を納得させるという手法ではなくて、とにかく自分で感じて欲しい、良いか悪いかは自分で感じて判断して欲しい、自分はその最初のステップとして紹介をするから、というやり方が一般的ではないかと思います。理論や利害打算に基づいて特定の考え方を信じて自分や相手を納得させるというのではなく、良いか悪いかを自然に感じる自分の感性に基づいて、取捨選択をしていくというのが、一般的な人々の行動様式になりつつあるのではないでしょうか。もちろんそうは言ってもオーガニックの品質表示とか、サプリメントの効能など、虚偽や誇張が入りやすいものには人々は極めて理性的かつ慎重に対処していますが、それはあくまでもロハスな製品であるかそうでないかの判断を行っているということであって、同じようにロハスで高品質な製品があったとき、人々は躊躇することなく自分の 感性、好き嫌いの気持ちの振れ方をもとに取捨選択を行っているように見えます。信じることよりも感じることを大切にする。そこには20世紀の時代にはあまり「推奨」されなかった人々の行動原理がうかがえると同時に、共生というのも基本的には共生していると本人自身が自分の感性で感じられることが、最も大切になってくるということなのです。

6. 楽しむことの大切さ

そして何よりもロハスな生き方をしている人の特徴は、どんなことであれ、楽しむ ことを非常に大事にしているということです。近年、スポーツの世界でもビジネスの世界でも、限りなく熾烈な競争に勝つためには、単に人々を競争させて淘汰させて残った人を選ぶというやり方では、うまくいかないということが体験的に明確にわかりつつあります。すなわち激しい競争の極致では、普通の人がどんなに訓練しても決して超えることができない高い水準の業績でなければ、決して競争には勝てないという現実が生まれつつあります。そうしたとき、どうすればその競争に勝てるのかというと、あまたの人の中から、初めからその分野に非常に優れた才能を持った人を選んで、その人に合わせた訓練を施し、しかもどんなに大変な訓練でも楽しく訓練できるように知恵を絞るというやり方です。本当においしい野菜や果物がえもいわれない甘さを持っているのと同じように、最高の業績というのは、はつらつとした楽しい環境のなかで、適切な刺激を与えることをとおして、その人の持つ潜在能力を最大限開花させることによって達成させられます。上から押し付ける訓練、型にはめるだけの訓練というものは楽しさが感じられないために往々にして人々の気持ちが萎縮し、潜在能力の開花もあまり見られなくなります。人はどういうときに楽しいと感じるか、人はどういうときに心の底からうれしい、よかったと感じるのか。それは自分の世界が広がった、あるいは自分の新たな潜在能力が開花したと実感できたときであり、その成功体験は人を次なる成功へと導く強力な原動力となっていきます。

7. 潜在能力の開花

これまた非常に興味深いことに、20世紀の最後に見た極端な競争社会で最後に勝 つ方法というのは、決して限りなく厳しい訓練をするという方法ではなくて、むしろ本人が楽しいと思う環境を整え、適切な刺激を与え、潜在能力を最大限開花させるという方法なのです。ということは人はそれぞれ互いに異なった分野で本来生かすべき潜在能力を持っているはずです。ですから21世紀の教育というのは、人に若いうちから様々な分野で試行錯誤を経験させ、どんな分野で潜在能力が開花しそうか注意深く判断し、方向性が見えたら適切な刺激を与え、楽しいという気持ちが壊れないように成功体験を積ませ、その結果として本人が持つ潜在能力を最大限に開花させていくというやり方が一般的になると思います。それは明らかに20世紀の大量生産方式の教育とは違うやり方で、20世紀と21世紀で最も姿が違ってくる部分のひとつが教育ではないかと思います。

8.ロハスがなぜ楽しいのか

ロハスな生き方をしている人を見ると、自分が得意な分野、自分が好きな分野、自 分が楽しめる分野をみなそれぞれ持っていて、その分野でどんどん専門知識を高め、経験を積み、ライフスタイルを進化させていっています。ロハスな生き方の対象になる分野は無限に広がっており、決して他人と成功を競う必要はなく、ひとりひとりがロハスな生き方の成功を体験することができます。すなわちロハスな生き方というのは、その具体的な姿がひとりひとり異なるので、成功というのは他人と比べることではなくて、自分が成功だと感じられるかどうかだということなのです。しかし同時にロハスな生き方は個々に千差万別であると同時に、互いに情報を交換し、互いに助け合い、互いに成功を語り合い、一緒に共同作業を行うことで、非常に大きな相乗効果(シナジー効果)を創り出すことができます。すなわちロハスな生き方にはこれまで述べてきたような価値観の特徴があります。人は同じ価値観を共有できる相手とはすぐに親しくなれるものですし、価値観を共有する人が共同して一つの目標を目指すと、1足す1が3になるような相乗効果を得ることができます。この相乗効果の部分というのがまさに他の人と共生することによってお互いの潜在能力が開花した結果であり、人は自分ひとりでロハスな生活を楽しむだけではなくて、他の人と共生することで相乗効果が働いて、より大きな成功と楽しさを得ることができるのです。まさにロハスの原点である共生というものがいかに楽しいかということを、比較的容易に感じ取ることができるのも、ロハスな生活の特徴です。

9. ロハスに生きると人は誇りが持てる

さらに、ロハスな生き方をしている人はなぜ穏やかで、共生を自然に求めるような 明るい気持ちを持つことができるのでしょうか。その理由はもちろんヨガなり有機野菜なり、そもそもの品質がもたらす良い効果が大いに影響していると考えられますが、同時にみんな自分なりのロハスな生活を自分の意思によって選択し、確立させていったときに、その人の個性、才能がふんだんに発揮されて、他の人とは違うライフスタイルになっているのを人が見て、誉めてくれるということが大いに寄与しているのではないかと思うのです。ロハスな生活では小さな花が大きな花に負けるということはありません。値段の安いものが高いものにばかにされるということもありません。みんなそれぞれ、健康と持続可能性という条件を満たしながら、自分固有の才能を開花させながら楽しく生きていることそのものが、人から評価され、誉められる対象になるのです。すなわちロハスな生き方は選択肢が無限にあるので、どんな選択肢でも自分の選んだ道を楽しく歩いている人はみな元気であり、人から自然に誉められるのです。だから、ロハスな生き方をしている人は誇りが持てるのです。すなわち、人と違ったことをやっていても、いや、人と違ったことをやっているからこそ、誉められるのです。人と違ったことをやっていても、いや、人と違ったことをやっているからこそ、誇りが持てるのです。

10. 違いが大切

したがってここで、ロハスな生き方の非常に大きな特徴であり、その延長線上にある「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会の非常に重要な特徴が浮かび上がってきます。それは、違いが強さになるということです。今までの20世紀の価値観では人と違うということは決して良い評価ではありませんでした。工場の品質管理を見るまでもなく、他と違うものは異質なものとして排除されるのが原則であり、価値観でも行動でも、集団として均一であることが強さの原点であると言われてきました。確かに20世紀の時代というのは仕事の上でも生活のうえでも人々の目標というのが非常に狭い範囲に集中していて、少ない椅子を誰が手に入れるか、序列があたり前のピラミッドを誰が一番上まで上るか、そういうことに多くの人々の関心が集まっていたのではないかと思うのです。すなわち20世紀の価値観では、違いは弱さを意味していたと思うのです。しかし上述のように「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会のなかでは、違いというものはそもそも他と自分を区別する重要なポイントであり、自分の思い、意思、自分の特徴の表現そのものになります。そしてお互いに違うからこそ、決して奪い合うことなく安心して共生することができるのであり、同時にお互いの違いを生かして共生することでそれぞれの潜在能力が開花して、より大きな楽しみが得られるのです。

11. 違いが強さになる

進化論のなかでも進化に残るのは決して強い種ではなくて、変化適応力が高い種だと言われていますが、社会全体としてみたときに、互いに違う人たちが環境に応じて自由自在にそれぞれの場所で花を咲かせ、それぞれの環境のなかで互いに共生して潜在能力を開花させていくことが、ひとつの生態系としての社会に安定性をもたらすのではないかと思うのです。社会全体がひとつの目標に向けて無駄なく組織化され、堅く秩序づけられているということは、確かに今日の仕事と生活には好都合で効率的かもしれませんが、明日、何らかの事情で世の中の環境が変わったときには、衰退と危機の大きな原因になります。人が無限の安心を求めるのであれば、社会は毎日が完結していなければなりません。それは互いに違う人たちがそれぞれの環境に合わせて行動し、共生することによって、初めて達成されるのではないでしょうか。すなわち、本来、互いに違うということは、弱さではなくて強さであるはずなのです。同時に、互いに違う人が価値観を共有して共生することで相乗効果が生まれ、それが人々の潜在能力を引き出し、社会全体のレベルが上がって、ますます社会全体が強くなっていくのです。歴史と伝統を学び、熟練の技を古老から教えてもらうということは過去と自分との共生による相乗効果を生み出し、ゴミをリサイクルし、自然の生態系を守るということは、未来と自分の共生による相乗効果を生み出すということになります。「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会では、違うからこそ強いのです。そして、違うからこそ、誇りが持てるのです。

12. 善悪という価値観の復権

さらにロハスな生活においては、善悪という価値観が明確に尊重されています。ロハスの言葉の定義から言っても健康で持続可能であるということを善として最初からうたっていますから、人はあまり迷うことなく善悪の価値観を持つことができるようです。一般に20世紀の常識ではあらゆる価値観、善悪の基準が相対化され、仕事や生活において善悪という価値観はあまり尊重されなくなっていきました。裁判に勝ちさえすればそれが正義であり、善になるという風潮が蔓延したことで人は何をすべきであり、何をすべきでないか、それを自信を持って判断する基準を失ってしまったと思います。しかし、実際に世の中を少し遠目に見ていると、やはり善なる行い、善なる考えと、悪なる行い、悪なる考えは多少のグレーゾーン(中間領域)を挟んで、厳然として存在していると思います。目に見えないほど小さい字で契約書を書いて、あとから契約違反だと言ってみたり、消費者にわからない言葉を使って本来消費者が望まない成分を混ぜたりといったようなことは、仮に法律的には違法性を問えなくても著しく相手の心証を害するものであり、二度と付き合わないという形で、ロハスな生活からは自然に排除されていきます。ロハスな生活というのは基本的には相手を信用する、性善説というもので成り立っています。ですから相手を裏切ったら二度とその場に戻ってくることができない、悪いことをしたらロハスなネットワークからは追放されてしまうという形で制裁が行われています。そのため人は自然に互いに信用できる相手を探すようになり、交渉や法律よりも信用で共生を成り立たせるという姿に落ち着いていきます。そしてその信用の土台にあるのは厳然とした善悪という価値観であり、善なるものを求めて止まない人々の気持ちです。

13. 無限に広がる産業の裾野

またロハスな生活を、それを支える商品を供給する産業という観点から見ると、その裾野は無限に広がっているのが特徴です。何度も述べるようにロハスな生活というのは健康で持続可能な生活ということですから、その応用範囲は無限にあり、あらゆる産業がロハスの分野で活躍できる可能性を秘めています。要するに健康で持続可能であるということを善だと認め、善に徹してロハスな生活を求める人たちと共生しようという意思と実力がある人であれば、誰でもロハスな人々とネットワークを持つことができます。ロハスな人々が求めるものは本物であり、良いものであり、また違いがわかる個性が見えるものです。決して安いばかりのものではないし、逆に高いばかりのものでもないし、有名ばかりなものでもないし、大量に売れているばかりなものでもありません。最後は好き嫌い、フィーリングが大事になってきますから、個性が尊重され、また個性によって付き合うお客さんが決まってくるという世界です。ですからロハスな世界になじむのはどちらかといえば中小零細企業、あるいは個人でやっている企業であり、さらに営利を目的としないNPOや任意の団体でも立派に活動ができる場所です。ということはロハスな生活を支える産業構造、その延長線上にある 「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会の産業構造というのは、あらゆる分野にわたって、内外無差別に、極めて個性的で優れた品質を持つ会社が網の目のようなネットワークのなかで活動していくという姿に落ち着くだろうと思うのです。この世界でひとつのブランドが他を制するということはありえないでしょうし、単に多額の資本金を持ってきても決して市場を席巻することはできないでしょう。常に足りないのはユニークなアイデアであり、熟練した職人であり、個性的で経験豊富な人材である、という姿だろうと思います。

2011-08-27

藤原直哉


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