そしてもうひとつ大きく変わるのが、現代の経済学だと思います。経済学の歴史を紐解けば、今のような非常に視野が狭くて効率一辺倒の経済学ではないものもあるとは思いますが、残念ながら今多くの人が接する経済学とは、自由競争と効率性を基礎にした経済学か、既に崩壊した社会主義や巨大な赤字だらけの政府の政策を解く経済学のどちらかだろうと思います。なぜ20世紀の世の中が行き詰ったのか、その最大の原因は20世紀の経済が行き詰ったからであり、もう少し突き詰めれば20世紀の経済学が不完全だったから、あるいは20世紀の経済学がその先の21世紀に向けて進化できなかったからだと言っても、過言ではないと思います。一体20世紀の経済学の何がまちがっているのか。わたしは20世紀の経済学の最大のまちがいは、あまりにも経済というものを小さな範囲で考えてしまったところにあると思います。わたしは21世紀の経済学というのは、20世紀の経済学に自然の恵み(自然からの贈与)という考え方と、善悪という価値観を加えたものになるだろうと思うのです。
そもそも20世紀の経済学では価値というものは労働によって生まれるとあります。しかし、本当でしょうか。ロハスな生き方をしているとよくわかりますが、価値というものはまずその圧倒的な部分が自然からの一方的な贈与によって生まれてくるものであり、その自然の恵みに人が十分に手をかけることで、最高の価値になると考えられます。農作物が育つときの様子を見てもよくわかります。そもそも植物を作り育てるのは自然です。人はどんなに利口になっても菜の葉一枚作ることはできません。畑に芽を出す植物というのは、自然が我々に一方的に贈与してくれるものなのです。しかし同時に自然に生える植物をそのまま放置しておいても、決しておいしい農作物を収穫することはできません。人が丹精込めて手をかけて初めて、すばらしい農作物として収穫することができるのです。工場で工業製品を作ることも同じです。工業製品を作る機械、道具があって、マニュアルに従ってそれらを動かしさえすれば、確かに製品ができるように見えます。しかし工業製品の本当の付加価値というのは、いかに丹精込めて製造設備を改善し、いかに緻密に整備し、いかに上手に道具や機械を動かすかによって決まるのです。機械と道具とマニュアルを並べればすばらしい製品ができるということは全くありません。工場にいかに人が丹精込めて手をかけるかで工業 製品の最終的な品質と価値が決まるのです。さらに人の教育でも同じです。人は自然の力によって成長していくことができます。しかしなぜ人は古来教育というものに熱心であり続けたのかといえば、自然に育っていく人を、人が丹精込めて教え導くことで、よりすばらしい人に成長していくからです。こうして我々は日常の仕事や生活のなかで、あらゆるものの価値というのは自然が我々に与えてくれる一方的な贈与の上に、我々が丹精込めて手をかけることで得られるものだということを、知ることができるのです。
さらにロハスな生き方のなかには善悪という価値観が明確に出てきます。今の経済学では善悪という価値観は明示的に取り上げられることがなく、すべては損か得か、損得の利害打算によって人々が行動していくと仮定しています。人は、自分の効用といって、明確に数値化できると仮定されている自分の欲望を、予算制約の範囲内で常に最大限に保つことがすばらしいことだと説かれていて、足るを知るということがありません。あるいは企業は単にさまざまな資源を寄せ集めて並べておくだけの倉庫のような場所であるようで、そこには自分の損得しか考えない限りなく強欲な経営者が居座り、工場設備でも人員でもできるだけコストと時間をかけずに大胆に減らしたり増やしたりできることが競争力であると言われたりします。しかし、それは本当でしょうか。逆に言えばこうした善悪を無視した利害打算だけの経済学が蔓延したために、20世紀の社会は崩壊に向かわざるを得なくなったのではないでしょうか。なぜ世の中で改革という名のもとに破壊だけが広がっていくのか。それはまだかろうじて残っていた善悪という価値観を排除して、世の中のあらゆることを損得の利害打算だけで判断しようとしたからではないではないでしょうか。ロハスな生き方、そしてその延長線上にある「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会においては、利害打算ではなくて善悪という価値観がまず初めに人々が経済行動を行ううえでの制約条件になります。さらに「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会においては社会の安定化と共に、互いに長い付き合いをするネットワークというものが世の中の基本的な構造になっていきます。ということは損得の計算も現時点での単一の取引だけで判断できるものではなく、過去・現在・未来をとおして行われるべきものになります。ということは、最終的に「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会における損得というのは、互いに生き続け、共生できるためのコストの交換というところに落ち着くのではないでしょうか。
では同時に、なぜ20世紀の社会主義経済学は破綻したのでしょうか。すなわち失業と飢えを社会から撲滅し、階級をなくし、資本主義を越え、ユートピアにより近づくべき社会体制であるはずの社会主義、共産主義を支えた経済学が、なぜ破綻したのでしょうか。それは基本的には自由競争と競争を重視する経済学と同じところに問題 があったからではないかと思います。すなわち価値の根源を人の労働のみに帰着させ、人の行動は利害打算によって行われるという前提が同じように社会主義経済学でも踏襲されています。しかも社会主義、共産主義の国では政治体制が独裁的で抑圧的であることが多く、人の創意工夫が阻害され、体制の至るところで腐敗が増大していったことも、体制の崩壊を早めたと思います。時間で測られる労働が価値の唯一の源泉であるということから本人の強みや嗜好、本人の個性に合わせた就職や教育が行き届かず、いたずらに労働時間を稼ぐことのみで経済が回っていたことが、競争力の長期的かつ著しい低下を招いたのだと思います。さらに政治体制のなかに建前の善悪と現実の善悪が甚だしく異なる部分が生まれてきて、それが国民に大いなる虚偽と不信をもたらし、社会主義や共産主義の理念に基づく経済活動を内部から崩壊させていったのだと思います。同じように総需要を政府が賢く管理しながら経済を運営していくという、いわゆるケインズ経済学においても、基本的には価値の源泉について自然の恵みを考えていませんので、社会主義や共産主義ほどではなくても経済活動において人の潜在能力を最大限に発揮するということを保証するのは非常に難しいですし、社会主義や共産主義の政府と同じように政治や官僚組織、あるいは企業の内部に善悪の基準の揺らぎと腐敗が生まれ、体制の弱体化が国家規模で発生し、それが結果として巨額の財政赤字を生み出したのだと思います。こうして考えてくると今の我々にとって、20世紀の経済学は資本主義的な経済学も社会主義的な経済学も、あるいはケインズ経済学においても、その何れもが共通の問題点を抱え、また政治体制との整合性において腐敗の問題を解決できないということで、立ち往生してしまっていると言えるのではないでしょうか。
では、21世紀の経済学というのは具体的にどんな姿になっていくのでしょうか。20世紀の経済学に自然の恵み(自然からの贈与)という考え方と、善悪という価値観を加えたものというのは、一体どんな経済学なのでしょうか。わたしは21世紀には経済学ではなくて、経営学が本格的に花開いていくのではないかと思うのです。したがって21世紀の経済学というのは、21世紀の経営学と名前を変えるべきであり、それは20世紀の経済学に自然の恵み(自然からの贈与)という考え方と、善悪という価値観を加えたものになっているのではないかと思うのです。そもそも経済活動というのは価値を生む人とそれを消費する人の間で起きる相互の活動のことです。そしてロハスというのは価値を消費する人の新しい生き方論ですから、当然これからの時代には、価値を生む人の側にも新しい生き方論がなければならないのです。それが21世紀の新しい経営学であり、「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会の経営学なのです。基本的に経営というのは価値を生むことであり、企業とはその価値を生む場のことであって、企業は常に世の中が良き方向に進化生成発展していくために新商品を作り、世の中に送り出していかなければなりません。経営学というのはそ の企業行動の原則と方法論を定め、世の中の進化生成発展がよりすばらしいものになるように、企業に指針を与えるものです。企業というのは単に製品を作って世の中に送り出すだけではなくて、人を雇い、人を教え育て、顧客、地域、そして取引先と末永く共生していくべき存在です。ですから経営学というのも本当はものすごく範囲が広くなければ完結しない学問であり、21世紀の経営学というのは、21世紀の社会科学そのものだと言ってしまっても過言ではないと思います。
ではその21世紀の経営学、「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会の経営学に特徴的なこととは何なのでしょうか。特に今の時代の経営学と比べて特徴的な部分はどこなのでしょうか。そのまず第一はリーダーシップです。20世紀のタテ型リーダーシップに代わってヨコ型リーダーシップがこれからの時代のリーダーシップの基本です。ロハスな社会、「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会というのは基本的に誰もが対等な社会です。すなわちピラミッド状の上下関係に縛られたり、権力と服従による支配関係をもとに仕事をする時代ではありません。そのため20世紀のタテ型リーダーシップのように命令して報告させればすべてが動くというようなことはありえません。21世紀のリーダーシップはみんなが対等な立場で同じ目的に向かって横にネットワークを組めるように働きかけるべきものであり、それは社外とのコラボレーションのみならず、社内でのチームワークでもまったく同じ構造になります。すなわち「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会では働く人たちは、まだ未熟な見習いを除いてみんながそれぞれ自立した職業人であり、プロフェッショナルです。ですから経営者が特権的な立場で社員をその意思に反して動かすということはできません。みんながそれぞれ自分で判断して会社の仕事に、あるいは会社を超えたプロジェクトに参加していくという姿です。そのヨコ型リーダーシップの具体的な仕組みについてはわたしの既著その他に詳しく説明してありますのでここでは触れませんが(『大逆転のリーダーシップ理論』、藤原直哉著、三五館、平成13年、『実践リーダーシップ学―世界が求めるビジネスリーダーとは』、アフサネ・ナハバンディ著、藤原直哉監訳、万来舎、平成16年、『隠れた人材価値―高業績を続ける組織の秘密』、チャールズ・オブライリー他著、広田里子他訳、翔泳社、平成14年、など)、それは表面的には米国で体系化されたリーダーシップの方法論となっていますが、そのエッセンスはかつて80年代の日本の成功を見て体系化されたものであり、そのため日本人にとって決して異質なものではなく、むしろ昔から日本で大切にされてきた価値観に基づいたリーダーシップだというべきであり、その上、非常に奥が深く、極めて高度に発展できる可能性を秘めたリーダーシップです。ロハスな社会、「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会を実際に運営するには、どうしてもこのヨコ型リーダーシップが経営の中に定着しないと、うまくいかないのです。
さらに「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会における経営の基本は、御用達(ごようたし)という言葉に尽きると思います。そもそも今の時代のように、何でも選ぶ自由があるということは、表面的には消費者にとって好ましいことのように言われますが、実際には賢い選択をすることが消費者の使命であるということでもあり、本質的には商品について素人である消費者が、限られた情報と知識に基づいて、しかも短時間で賢い選択をすることは、決して容易ではありません。むしろ多くの消費者は自分のニーズ、好み、予算などの制約条件などをすべて総合的に勘案した上で、賢い選択を誰か信頼のおける人に頼みたいと思っているのではないでしょうか。たとえば家を買うというようなことは典型的であり、素人である一般消費者が自信を持ってすべてを理解した上で買うということは決して容易なことではありません。さらに自分の健康を維持増進するために具体的にどんな健康法を採用し、どんな食事を採れば良いか、それを最も賢く選択するというようなことは、普通、素人にはできることではありません。よく考えてみると、本来、モノやサービスの売り買いというのは、表面的にはモノやサービスとお金の等価交換でしかありませんが、実際には買い手が持つニーズ、買い手が充足しなければならない用事に対して、売り手がその解決手段を提供するということです。一番大切なことは商品の売買ではなくて価値の提供であり、それはもっと突き詰めれば売り手が買い手の用を足すということです。健康と持続可能性を価値観の根本に据えたロハス、そしてその延長線上にある「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会においては、20世紀の経済よりもはるかに買い手のニーズが多様化かつ専門化し、買い手にとっては購買活動が事実上の学習活動にもなっているのです。だからこそ、売り手は買い手にとって最適の商品を「あつらえ」て買い手の用を足す、すなわち御用達を行うことが必要になってくるのです。
御用達経営というのは、売り手が買い手の用を足すということを考えてさまざまな商品を選び、「あつらえ」、提供する経営のことであり、単に商品と価格を仲立ちにして、売り手と買い手がゲームのごとき感覚で対峙して損得を競うという伝統的な売買のスタイルを、もっと本質まで深めた形態の経営のことを指します。同時にここで売り手はもしその人が買い手から幅広く信頼され、また幅広い分野で実力を持っていれば、いくつもの商品、分野で買い手と御用達の関係で結ばれるようになり、売り手はより幅広く仕事を行っていくことができるようになります。そして最終的には選ぶというよりも買い手にとって最適の商品を「あつらえ」るというところへと経営が進化していきます。「あつらえ」るということはその人のためだけの商品を用意するということであり、それは文字どおり初めからその人のためだけに注文生産をするということだけでなく、その人のために特別な組み合わせをしたり、特別な配慮をしたりということすべてを指します。そして世の中全体が無数の御用達経営のネットワークで結ばれて、ありとあらゆる商品が「あつらえ」るというやり方で用意され、取引される ようになったとき、社会の全体の経済は御用達経済の時代と言うべき時代を迎え、最高に個性的で、すべての人の満足に最高度に対応できる消費社会を打ち立てることができるはずです。それと同時に御用達経営においては、むやみに顧客数を増やしたり、販売数量・金額を増やすということは決して好ましいことではありません。なぜならば好みがよくわからない買い手を増やしても相手のニーズにぴたりとこたえることはむずかしいですし、言ってみればお馴染みさんではなくて一見(いちげん)さんだけを相手に数量と金額を増やしていっても、結局は買い手との間で深い関係のネットワークを結ぶことが困難ですから、経営は進化しにくくなり、不安定になってきます。御用達経営というのは、「あつらえ」るということを基本に、特定の、相互に信頼関係が確立した買い手に対して、他にはない独特の商品を提供していくということが基本になるのです。
そしてすでに今の段階で、ロハスな生活のなかでは御用達経済は幅広く始まっています。たとえば、ロハスな生活において買い物をするときには非常に多くの情報が買い手と売り手の間で交換されることが普通です。すなわち価格と数量以外に、たとえば農産物であれば産地の情報や生産過程の履歴、あるいは調理法や後片付けの方法など、買い手が知りたい、学びたいと思う情報の多くが売り手から提供されていきます。特にロハスのビジネスはインターネットや通信販売で行われることが多く、店頭で直接商品を見て選択する以上に、詳細かつより深く踏み込んで、情報のやり取りが行われることが多いようです。買い手はその情報をもとに購買活動を行うと同時に、売り手は買い手から要求される情報を提供していくことをとおして、売り手が何を求めているのか、売り手が足そうとしている用は何であるのかを知ることができ、それを念頭に、より適切な商品を買い手のために「あつらえ」ていくことが可能になっていきます。さらに特にインターネットを使ったビジネスでは、自分の会社が推薦する他の商店や、情報を提供してくれる外部のサイトがリンク先として紹介されていることが一般的であり、もし買い手がその売り手を信用するのであれば、その売り手が紹介し、リンクを張る先の商店も同じように信用されることが一般的です。あるいはロハスの世界ではインターネットや雑誌あるいは本に、ユーザーの体験記が多数掲載されていて、買い手も売り手も無数に流れるそうしたユーザーの情報に基づいて、より自分たちの行動を改善・改良し、進化させていくことができるようになっています。ですからロハスの世界では既に御用達経済が事実上始まっていて、ロハスの延長線上にある「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会においても、御用達経営と、それに基づく御用達経済が広く社会全体に行き渡ると想像できます。
ではこうした世の中の変化を支える新しい教育システムはどのようになっているのでしょうか。先にも述べたように、「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社 会の教育の基本は、人に若いうちから様々な分野で試行錯誤を経験させ、どんな分野で潜在能力が開花しそうか注意深く判断し、方向性が見えたら適切な刺激を与え、楽しいという気持ちが壊れないように成功体験を積ませ、その結果として本人が持つ潜在能力を最大限に開花させていくという方法です。ここで特に教育システムの側がよく注意しなければならないことは、21世紀の「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会を支える実力というのは、まず第一にひとりひとりが開花させる潜在能力にあるということと、第二に組織のチームワークが作り出す相乗効果や、種、空間、時間を越えたコラボレーションが作り出す相乗効果にあるということです。すなわちこれからの時代は商品の品質と価格という面においては、内外入り乱れた強烈に厳しい時代が続きます。したがって何人たりとも中途半端な実力ではまったく世の中に通用しませんし、単に表面的な能力によって人を集めただけの組織では、決して厳しい顧客のニーズに対応できる商品を提供し続けることはできません。人の潜在能力を開花させ、またチームワークやコラボレーションの相乗効果を発揮させるためには、非常に緻密で創造的で情熱的な教育が必要であり、単なる知識の詰め込み教育だけではだめであるのはもちろんのこと、個人を競争させてそれを動機付けにするような教育でもだめだと思います。さらにこれからの学校は現在のように年齢で輪切りにする教育では全くだめで、人は生涯にわたって企業と学校を自由に行き来することができ、教育が個人と社会のセイフティーネット(安全網)として、あるいは疲れた心と体を休め、人生の方向性を転換し、年齢の上昇とともに次の段階のライフスタイルに合わせた能力とやる気を提供する場になっていなければならず、新しい挑戦への意欲を掻き立てる場所として機能することが必要です。恐らく今の日本で、「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会の到来を前提にしたとき、そこから一番距離があるのが教育システムではないかと思うのです。ロハスな生活というものが日本で急速に浸透しつつあり、御用達経済もロハスの世界でここまで浸透している現状を見るとき、それが社会全体のシステムとなって、「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会という形で定着し、成功するか否かは、それを支える人材を適切な教育システムによって輩出できるかどうかにかかっていると言っても過言ではありません。この21世紀型システムの最後の難関は、その教育システムにあります。
そもそも試行錯誤というのは、最初は必ず失敗すると言っていることと同じです。また適切な刺激というのは、初めの段階で本人が自発的にこれはおもしろい、やってみようと思うものを見つけるまで、考えうるありとあらゆる勉強なり体験を、試行錯誤を繰り返しながら積ませていくということを意味し、一度そういうものが見つかった後は、怠けることなく、しかし無理に過ぎることなく、実力がどんどん向上していくように、本人に最も合った教育プログラムを「あつらえ」て、効果的に実施していくということを指しています。恐らく今の日本の状況を考えれば、実質的に人が成人 になる年齢は30歳であり、30歳までが試行錯誤と、プロフェッショナルとして認められる前の見習いの期間になると思います。一般に義務教育というのはその教育を受ければ普通の人でも安心して生活し、仕事をし、結婚し、子育てを行い、安心して老後を送ることができる実力を得られる教育のことを意味します。残念ながらこれから来る「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会において、何歳までに何を教えることで義務教育が成立するのか、それは少なくとも10年ぐらい、試行錯誤的に様々な教育を行ってみないと結論は出ないと思います。この間は社会のさまざまな人たちが、自分がこれがよいと思う教育をそれぞれ行ってみて、10年ぐらい経った段階で結果を評価して、方向性を決めていくということが現実的だろうと思います。
そして義務教育を過ぎて大体30歳までの教育と、その後の生涯教育については日本全体で本当に無数の試みが展開され、数多くのユニークな教育によって、実に多様な人材が社会に送り出され、まさに違いが強さにつながるような社会が生まれてくると思いますが、わたしの私案として、義務教育終了後、10年から15年ほど半分働き、半分学びながら通う21世紀の学校のイメージを書いてみたいと思います。その学校は資金的には3分の1は親の援助、3分の1は外部からの寄付、そして残り3分の1は自分たちでお金を稼ぐ(自給自足を含む)という形で運営されています。中心的な考え方として、30歳で一人前になることを目標にしており、それまでにプロフェッショナルとして自立できるための教育を行うことが最も大切なことになっています。同時にもし30歳を過ぎて転職や悩みを抱えて疲れてしまったような場合には、いつでも学校に戻って来ることができるような体制が整えられています。教育の柱は3本あって、生活、実習、そして座学です。さらにその中はそれぞれ次のように分かれています。
生活
日本文化
-お茶:作法、食事、芸術
-合気道:体作り、精神統一、気の訓練
-神道:日本哲学、天地人の統一
実習
ものづくり:実際に工芸品や工業製品を製造します
農作業:毎日農作業を行います
販売:ものづくりと農作業で作った品物を販売します
座学
実習関連科目
・ものづくりに関して-理工学、品質管理
販売に関して -経営、金融、会計
農作業に関して-生物、環境、保健
教養科目
組織のリーダーシップ:未来を創る方法
コンピュータ:ワープロ、表計算、プレゼンテーション、データベース、インターネット
外国語:英語、アジア各国語、エスペラント語等
数学:数的論理・歴史:日本史、世界史
法律:大陸法と英米法、人権、契約、倫理、法律実務
政治:憲法、行政
異文化交流:地理、旅行、ディベート
座学に関してはずいぶん科目が多いように見えますが、あくまでも実習をしていくなかで出てくる疑問や改善を行うためにどうすればよいかという問題意識で学ぶものです。ですから学問を学ぶための座学ではなく、本当に必要なことをコンパクトに学び、それを実習で試して腹で理解させるという考え方です。教養は文字どおりの教養で、特に今すぐ役に立つことはないかもしれませんが、知っていればどこかでとても役に立つというものです。もちろんそのなかの多く、特にリーダーシップやコンピュータや外国語は生活や実習のなかで具体的に問題が出てきますので、座学はそのまとめみたいなものです。これはあくまでもわたしの私案ですが、きっと日本全体に新しい学校を作ろうという機運が一気に盛り上がって、さまざまな教育が一斉に花開くときが近いうちに来るだろうと、わたしは思っています。
では「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会における政治システムはどのようになっているのでしょうか。今までに述べたこの新しい社会における様々な特徴をもとにさまざまな利害損得を最終的に調整し、社会全体がより良き方向へ常に進化生成発展できるように気を配り、人々や組織をリードしていく責任を負うのが政治システムです。今の段階では近未来の日本で国と地方でどのような役割分担が行われるようになるのか、明確に判断することは難しいと思います。しかし流れとしては地方分権が拡大し、同時に中央政府の果たす役割は小さくなり、そのなかで住民の生活を守るという使命を負った地方政府は、民間を指導することではなくて民間と「共生」すること、そして地域を統治することではなくて、地域を「経営」することにその主眼が動いていくだろうと思います。それと同時にロハスな生活、そしてその延長線上にある「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会においては、善悪という価値観が復活しています。健康と持続可能性という二つの大きな価値観の土台の上に、善悪の価値判断が載ってきます。ですから政治は、20世紀までの清濁併せ呑むというやり方が通用しなくなり、倫理や法律・規則の遵守、透明性の確保、行政手続の透明化、予算の効果的・効率的運用等に関して、現在よりもはるかに厳しい要求が住民から出されていくことは、まちがいないだろうと思います。その結果、政治や行政は20世紀のような、「民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず」という やり方が通用しなくなり、政府はお上であるという雰囲気から、政府は地元のネットワークのひとつであるという雰囲気に変わっていき、もう少し踏み込んで言えば、政府は数あるNPO法人のなかのひとつである、というように人々の意識が変わっていくだろうと思います。そのため税金や社会保障負担に関してもお上に納めるという意識から、必要経費を割り勘で負担するという意識に変わっていくだろうと思います。さらにあるところまで一度政府が小さくなった後は、民間と政府の役割分担に関して非常に戦略的に考えて行動する地域が出てきて、政府の役割というのは地域ごとにかなり差があり、それが各地域の個性であり、特徴になっていくのではないでしょうか。最終的に基本的な政府と民間の役割分担の考え方は、現在の北欧で見られるような形態に落ち着き、自由競争と小さな政府を旗印に国民が放置されるのでもなく、また社会主義国のように国が丸抱えで国民の面倒を見るというのでもなく、両者の強みを生かして、民間の活力とセイフティーネットが共に充実した姿へと変わっていくだろうと思います。もう既に日本の地方自治はこのような未来の特徴を備えた姿に変わり始めており、この流れが加速して21世紀の新しい政治システムが地方から生まれてくるのだろうと思います。
またこうして新しい時代が進んでいくなかで、今の日本を支えている日本の製造業はどうなっていくのでしょうか。基本的に日本は製造業の現場の強さで考えたら世界一だと思います。しかしその一方で経営手法や戦略において改善すべき点が多々あり、その悪影響が現場に暗い影を落としていることも多々あります。さらに現場の強さといっても、熟練技能者の退職や海外生産移転などで空洞化している部分がたくさんあるのも確かです。しかし世界と比較した場合には、日本の製造業の現場の強さは、依然として世界一だと思います。わたしは「グレイト・コラボレーション=偉大なる共生」社会が来ても、引き続き日本は製造業の大国であり続けるだろうと思います。ただし、今までの20世紀の姿といくつか変わる点があると思います。まず、製造業は大企業でも中小零細企業でも、非常に熾烈な国際競争にさらされ続けるでしょう。そのため、製造業を担う人は野球で言ったらアマチュアの草野球の選手ではなくて、プロ野球の、それもメジャーリーグの選手が活躍する場所になるだろうと思います。米国のメジャーリーグに全世界から優秀な人材が集まっているのを見ればわかるように、日本の製造業にもこれから全世界から優秀な人材が集まってくるのではないでしょうか。したがって20世紀のように製造業が国を支える産業であり、国民の雇用の中心であるという姿は次第に変わっていくと思います。特に競争力の強い製造業は世界の製造業であり、ものすごく実力のある人が働く場所だ、ということになっていくのではないでしょうか。それからもうひとつ変わる点は、どんなに競争力の強い製造業であっても、これからは健康と持続可能性という2つの基本的な価値観を揺るがせにするような企業は、社会から排除されていくだろうということです。ともすると今の製 造業は激烈な競争を勝ち抜くために基本的な価値観を揺るがせにしたり、判断基準を使い分けたりするところがあります。そういう企業は恐らく、これからの時代には人々から拒絶されるでしょう。ということは、これからの日本の製造業には非常に優れたリーダーが必要になるはずで、優れたリーダーがいないところは、経営としては次第に成り立たなくなっていくのではないでしょうか。